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古墳時代から飛鳥時代へ(6世紀の出来事)

古墳時代では初期から中期頃にかけての「各地の豪族が連合して支配する」体制から大王の権力が増大して豪族が服属する形へ移行した。 豪族間での力関係も明確になってきており、飛鳥時代に入る直前には大伴氏・物部氏が特に力を持つ事に成功。 この力関係が変化するきっかけとなったある出来事がある。今回は、その変化の「きっかけとなった出来事」とその出来事が起こった 「周囲の状況」をまとめていくことにする。

古墳時代中期(4〜5世紀頃)以降に力を付けた渡来人との関係が深い豪族(=大伴氏)が朝鮮外交で失策(⇒欽明朝でそれまで大伴氏の全盛期を築いた大伴金村が引退)


蘇我氏(渡来人と関係が深い)台頭
物部氏と二極体制に

力関係が決定的になったのが…  538年又は552年とも言われる



※後のキーマンとなる中臣氏は排仏派として蘇我氏と対立していました。中臣氏
  神事・祭祀を司った一族のため、排仏派の立場になるのは当然だと思われます。



587年  蘇我馬子物部守屋を滅ぼす
(=蘇我氏の一族が強い実権を握ることに)
592年  崇峻天皇暗殺                    
推古天皇即位         


都が飛鳥へ移り宮都となる(宮=天皇の住まい)

周辺国と日本の状況


中国
    統一国家・の誕生(581年)

朝鮮半島
    新羅の発展・国力強化(=倭国の同盟国で、資源や技術獲得における最重要国百済
    一辺倒では危険なのでは?という考えが一部に出て来る)



防御を固めながら(=飛鳥への遷都)隋との交渉を図る方針へ
推古天皇・聖徳太子・蘇我馬子の時代>

ところが、600年遣隋使を送ったところ、事実上追い払われるような形に。
そこで、国家組織の体制を整える事が急務となる


飛鳥時代に国家体制を築く上で聖徳太子らが行った事

603年・・・冠位十二階
    個人に対し、冠位を与える=氏族単位の王権組織を再編成
604年・・・十七条の憲法
    ■豪族たちに対し、国家の官僚としての自覚を求めるため
    ■新しい政治理念として仏教を重んじる



607年に再度小野妹子をはじめとした遣隋使を送る
「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙(つつが)無きや、云云(うんぬん)」
の国書を隋の煬帝(ようだい)に送る(中国皇帝に臣属しない形式を取るように)


※ただし、倭国側は臣属しない形にしたかったものの実際にはそこまでの待遇には至らず。思った結果には至らなかった。


他にも、寺院の建立国史の編纂を行ったという

     

 メモ

 朝鮮外交での失策
高句麗の南下に伴い、朝鮮半島での交渉のための拠点(伽耶)を失った


 豪族の力関係
ブログ『古墳時代ー飛鳥時代、豪族の対立に至るまでの経緯を調べてみる』、『古墳時代ー飛鳥時代、豪族の対立に至るまでの経緯を調べてみる・その2』 に詳細。

なお、仏教伝来自体は百済からすれば軍事的支援を得るための取引の道具だったと考えられる。


 都が飛鳥に移った理由
周辺国の勢力争い、隋の建国に危機感を持ったため、防御に適した場所に都を作る必要性が出てきた。

その時に参考にしたのが最前線の同盟国・百済の都市「扶余」。扶余とよく似た地が飛鳥だったと言われている。


 資源・技術獲得の重要国
元来は伽耶がこの立場。ただ、既に新羅に吸収されており、欽明朝(540年〜)以降、朝鮮南部の奪還は政権の悲願となっていた。

厩戸皇子(聖徳太子)も新羅攻撃の計画を2回ほど立てている(どちらも頓挫)。


 607年の遣隋使
ちょうどこの年、隋に臣属していた隋より北方の勢力・東突厥(とっけつ)へ高句麗が密使を送っている。

隋が出来た年に(隋の)離間の策で東西二手の勢力に分かれたが、元々突厥は中央ユーラシアの覇者でもある。 更に製鉄業にも精通。隋にとっては危険な存在でもある。


世界地図で見る世界史より

加えて、高句麗とも隋は一度戦争しており、いつチョッカイ出されるか分からない。そんな2カ国に内通の可能性が出てきた訳で、当然隋は危険視する。


そんな中の小野妹子と例の国書登場である。倭国としてはこの微妙な国際情勢の隙をついた形のようにも見える。 また、この国書に知恵を出したのは高句麗の僧・慧慈(えじ)ではないかとも言われている。

他にも隋は倭国を大して気にしておらず煬帝の器を見せるために使者である小野妹子を廃さず、 逆に裴世清という隋からの使者を送って倭を徳化させようとしたと考えている人もいる。


 寺院の建立
近年ではこれらの飛鳥に造られた寺院も含めて、防衛拠点を作ったのではないか?ということも言われてきている。


 国史の編纂
持統朝以前にも系図の様なものは作られていた様子。

持統朝で編纂された書は、後の『日本書紀』『古事記』 の元となった帝紀』 『旧辞ですよという人と、 『日本書紀』の出典元として出て来る天皇記』 『国記』『臣連伴造国造百八十部併公民等本記』が編纂されていたんですよという説、様々ある。

※前者の説を支持している人は、推古朝のこの時期に「天皇」や「公民」という言葉がなかったことを理由として挙げている。
『天皇記』や『臣連伴造国造百八十部併公民等本記』などには、タイトルに「天皇」や「公民」という言葉が思いっきり入っているので、持統朝じゃない時期に編纂されたのでは?という事らしい。