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古代最大の対外戦争「白村江の戦い」と古代最大の内紛「壬申の乱」が起こるまでの経緯

乙巳の変以降急速に権力を拡大したのが中大兄皇子。彼の政治スタンスが対外戦争に繋がり、その敗戦により様々な改革を余儀なくされた。 今回はその戦争までの経緯と、それだけの権力を持った中大兄皇子(=天智天皇)が崩御した後の混乱についてまとめていく。

大化改新での勝者・中大兄皇子らは「百済寄り」の外交スタンス

(全く逆の方針を取る学者もいるらしいが、この説が一番しっくりきたので当サイトでは「中大兄皇子=親百済派説」をとっている)

そんな時期に、朝鮮半島情勢に動きが出てくる

  660年  百済滅亡

        

  661年  斉明天皇(中大兄皇子の母親でもある)が降伏した百済復興のために援軍
            朝倉宮を建設⇒ところが、斉明天皇急死

        
  663年  白村江の戦い ・・・中大兄皇子が指揮、百済に派兵
               =新羅・唐の連合軍との戦い

         ところが

      大 敗  ⇒  不満↑↑

この敗戦が原因となり、様々な改革を進めることに。

   国土防衛の強化
        大宰府の北方・・・水城(みずき)大野城(おおのじょう)
        大宰府の南方・・・基肄城(きいじょう)
        対馬〜大和・・・朝鮮式山城
          ⇒造営工事などで不満↑↑

   甲子の宣を出す
  1. 冠位を十九階→二十六階に(⇒下級階位の増加)
  2. 氏上を政権が定める(⇒氏族の勢力、国への功労度により豪族を再編成)
  3. 豪族の私有民領有の再確認(⇒豪族との融和に配慮)
   都を近江大津宮へ(=4度目の遷都⇒負担↑↑⇒不満↑↑

そんな中で
  668年 中大兄皇子天智天皇として即位
  668年 庚午年籍(こうごねんじゃく)=最初の戸籍
           法典近江令を定める(ただし、その完成を疑う説もあり)
  671年 天智天皇崩御

        

  672年 後 継 者 争 い = 壬 申 の 乱 に発展 (詳細はブログに)

正統な後継者として天智天皇が指名していた息子・大友皇子と、反乱を起こした天智天皇の弟・大海人皇子であったが、 大海人皇子の根回しなどにより(背景に天智天皇への不満?)多くの豪族らを仲間に引き込むことができた結果 ⇒ 大海人皇子が勝利

        

大海人皇子が飛鳥浄御原宮で天武天皇として即位することに
近江朝側についた有力な中央豪族が没落し、天武天皇を中心とした中央集権的な国家体制に

天武天皇以降の政治

天武天皇の時代=本格的な律令体制に
675年 豪族の私有民を撤廃して官人の位階や昇進の制度を定める(=官位相当制)
   同時に身分別の服装規定、宮廷内の礼儀規定といったものも定めている⇒官僚制の形成
684年 皇親の優位を確立させるための八色の姓制定

その他に
681年〜 律令の制定に着手(=大宝律令の原型)
国史の編纂を指示[古事記(712年成)・日本書紀(720年成立)]⇒天皇権力の権威付け
銭貨(富本銭)の鋳造(ちゅうぞう)
藤原京の造営に着手(奈良盆地南部)

        ところが

藤原京完成の前(686年)に天武天皇崩御
持統天皇の時代へ=天武天皇の引継ぎ
689年 飛鳥浄御原令の施行
690年 庚寅年籍(こういんねんじゃく)の完成
694年 藤原京の完成  律令国家を象徴するような都で初の中国風都城
          ■一代限りではなく、三代に渡る天皇の都に
          ■宮の周囲に条坊制を持つ京が設けられる(=有力な王族や豪族が集住)
          ■国家の重要な政務・儀式の場が設けられる=大極殿・朝堂院(瓦葺+礎石建ち)

         持統天皇が先例のない15歳の孫・文武天皇へ譲位する

文武天皇の時代へ=独自の律令制度の完成
701年 大宝律令の完成・・・持統太上天皇と藤原不比等が主導、刑部親王が編纂総裁
     蔭位の制(大宝律令によって制定)・・・役人が細かく等級化され、更に代々の位階が保証される
       ⇒有力貴族の台頭(代表例:藤原氏)
班田収授法の開始(戸籍整備⇒公民に口分田を与える)
様々な税を課すように

※大宝律令で制定された詳しい内容と税の詳細は後々改めて記事を書いていく予定です。

     

メモ

 持統天皇
前天皇・天武天皇の皇后で、更に2代前の天皇で尚且つ天武天皇の兄でもある天智天皇(中大兄皇子)の娘でもある。

天武天皇と持統天皇の子・草壁皇子が28歳で死去するが、草壁皇子の息子は当時7歳だったため、持統天皇が即位。 7年程持統天皇の治世だったが、持統天皇の孫がある程度大きくなってからは皇位を孫の文武天皇に譲位。自らは後見人として太上天皇として政治に関わっていた。

この経緯をブログの「斉明天皇と鬼と祟り」という記事で触れています。持統天皇と藤原不比等について書いた部分ですので、気になったら確かめて見て下さい。


 条坊制って?
簡単に言うと、碁盤の目状の都市プランのこと。

参考書籍











 メモ

 朝倉宮の建設

朝倉橘広庭宮跡「福岡県観光情報・クロスロードふくおか」より
現在の福岡県朝倉市と愛媛今治市朝倉、高知県高知市朝倉の何処かにあったとされる。それぞれの地域で伝承があるが、福岡県の朝倉にあったとするのが通説。

ブログにも朝倉宮についての記事があるので参考に。


 白村江の戦い
出典:wikipedia(韓国版)の錦江より
水色の線部分が錦江


現在の韓国南西部、全羅北道から黄海に注ぎ込む錦江(きんこう、クムガン)の河口付近で戦闘したと見られている。 この川は、百済にとって水上交通の要所でもあった。

倭国には、百済内部の「大乱」で異母兄に太子の地位を追われた「最後の王の息子・扶余 豊璋(ふよ ほうしょう)」が人質として滞在。 同盟の担保にされていたとされる(諸説あり)。

660年に百済が滅び、百済の佐平・鬼室福信らが百済復興のための反乱を起こして倭国側もこれに合流。 当然、豊璋も参加するが、次第に実権を握る鬼室福信との間に確執が生まれ663年6月に殺害。以降、急速に反乱軍は弱体化し、唐・新羅軍に隙を見せることとなる。

倭国側は、朝倉宮を作り多くの人数の兵と船を派遣するも杜撰な作戦で唐・新羅の連合軍に大敗。


 大宰府とは?
7世紀後半に九州・筑前国に設置された地方行政機関のこと。筑前は今の福岡県西部にあたる。


 水城・大野城・基肄城
それぞれの城も大きいが、その城と城の間にある平野などに土塁等を作って自然の地形を生かした雄大な防衛拠点として知られている。 これらを作った約500〜600年後の元寇の際にも水城を拠点とした記録があり、かなり力を入れて作ったことが伺える。


 八色の姓って?
従来あった姓を統合し、新たに「真人(まひと)・朝臣(あそみ、あそん)・宿禰(すくね)・忌寸(いきみ)・道師(みちのし)・臣(おみ)・連(むらじ)・稲置(いなぎ)」の8級に改めた。

皇親やその子孫の一部の姓には「真人」、皇族から降下した有力氏族などに「朝臣」など当初は定義に乗っ取った姓を付けていた。

ブログ・八色の姓の記事に詳細載ってます