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大化の改新までの経緯

飛鳥時代に突入し、6世紀後半に興った国・隋への危機感を募らせた倭国は、推古天皇・聖徳太子・蘇我馬子を中心とした体制で国力を高めていく方針を取った。 今回のまとめでは6世紀後半あたりからの出来事を時系列順に並べてみることにする。

6世紀後半
  崇峻天皇暗殺後
  推古天皇即位 ← 補佐 ― 摂政:厩戸王(=聖徳太子)・大臣:蘇我馬子
        ※蘇我氏はこの間に皇族と婚姻関係を結び、地盤固め。厩戸王の元にも蘇我氏の娘が嫁いでいる

       

7世紀頃〜
  厩戸王・・・・622年没
  推古天皇・・・628年崩御  ところが、次期天皇明確にせず

       

後継者候補に山背大兄王(厩戸王の息子で、蘇我系の血族でもある)
             田村皇子(推古天皇の夫・敏達天皇の孫にあたる) ← 擁立 ― 蘇我蝦夷・入鹿

       

  田村皇子が舒明天皇として即位

一方その頃の近隣諸国の様子・・・
唐・新羅連合軍 ⇒ 高句麗侵攻=百済も窮地に
  ⇒倭国は以前より百済との親交が深いうえ、これだけ周辺国で動きがあるため危機感↑↑

倭国=中央集権国家の確立・国内統一の必要性に駆られるようになるが、問題が出て来る
   権力をどこに集中させるか?
   どんな外交スタンスを取るか??
         (↑あくまで一説。一般的には蘇我氏の専横が原因とされている)など

       

       

645年  乙巳(いっし)の変・・・中大兄皇子らが蘇我入鹿を暗殺。翌日、蝦夷も自害。
     蘇我宗家の滅亡
     軽皇子が孝徳天皇として即位
     中大兄皇子が皇太子に
     拠点が飛鳥から難波へ

         さらに様々な政治改革

646年  改新の詔
     豪族の持っていた田荘(たどころ)、部曲(かきべ)の廃止 ⇒公地公民制へ?
            ⇒それに伴い、全国的な人民・田地の調査。統一税制の施行を目指す。
     地方行政組織『評(こおり)』の設置
     難波宮(なにわのみや)の設営
            (⇒その後、孝徳天皇と不和になった中大兄皇子は653年に飛鳥へ戻る)

これらの諸改革を大化改新と呼ぶ
王権や中大兄皇子の権力が急速に拡大していった


※追記
蘇我倉山田石川麻呂は649年に中大兄皇子と中臣鎌足の謀略により自害へ追い込まれ、孝徳天皇崩御後は蘇我氏系の大王候補・古人大兄王も滅ぼしている⇒かなりの恐怖政治だったことが推測できる

     

 メモ

 厩戸王と蘇我氏の関係
蘇我馬子の娘・刀自古郎女(とじこのいらつめ)が聖徳太子の配偶者に。聖徳太子にとって舅にあたる他、聖徳太子の叔母にあたる推古天皇の母親が蘇我馬子の姉になる。

政権下では両者とも協力体制を敷いているが、実は蘇我馬子を聖徳太子が牽制していたとも言われている。


 田村皇子を擁立した理由
「山背大兄王がまだ若く未熟であったから」、「蝦夷が山背大兄王を疎んじていたから」という消去法説。

他には、他豪族からの反発が予測される蘇我系の山背大兄王を避けた説などがある。


 百済中心の外交?
あくまでも、基本スタンスなだけ。王族中心のグループの中にも反蘇我氏の名目のみで、親唐派や親新羅派の豪族もいただろうと推測

⇒そういう人は猶更今後の出来事(白村江の戦い)に対しての不満が募っただろうと思われる。



 田荘とは?
豪族たちの私的な所有地のこと。古墳時代に作られた制度。

 部曲とは?
豪族の私有民のこと。

 公地公民制への移行が疑問な理由
「改新の詔」自体が後世に書き足されたことが最近になって分かってきており、本当にこの時期に公地公民制に移行したと言いきれなくなってきている。


ブログに大化改新から律令制度へ移行する様子を書いてありますので、良かったらどうぞ。多少、ブログの方が詳しく書いてあります。
大化改新と律令制
大化改新と律令制その2