トップ古代史 > 飛鳥時代「大宝律令の成立」 

大宝律令とは?

強い集権的な国家が徐々に出来上がってきたが、その過程で起きた皇位継承問題。 この皇位継承権を巡る問題により壬申の乱という内乱が発生する。この内乱を上手く治めたのが天武天皇天武天皇は乱れた国家体制を再度立て直すことにした。天武天皇の時勢から3代かけて吟味を重ねたのが大宝律令。 今回はそんな大宝律令について詳しく調べていく。

天武天皇【673〜686年】、持統天皇【690〜697年】、文武天皇【697〜707年】までの間、現代にまで影響を及ぼす律令制度の基本を確立。

唐にあった律令制度をもとに、日本でも「律」と「令」を編纂。そんな律令のうち、日本で初めてできたものが大宝律令

・・・現在の刑法にあたる

  (ち)=臀部への鞭打ちの計で最も軽い刑罰。鞭の形状が細かく定められていた。
  (じょう)=笞に次ぐ刑罰。木製の杖で背中又は臀部を打つ。
  (ず)=獄につなぎ、一定期間(1〜3年)の拘束と強制的な労役に服する。
 流(る)=遠隔地(僻地や離島)への移住。近流・中流・遠流の3段階に分かれていた。
 死(し)=いわゆる死刑。絞・斬があり斬の方がより重い罪。
  以上、5刑が定められている。特に重罪とされたのが国家・天皇・尊属等に対する罪(=八虐)。
  地方では、郡司(=地方の行政官)に笞罪までの裁判権が与えられている

・・・現在の行政法・民法にあたる。行政組織や官吏の勤務規定や人民の租税などを規定。

中央行政組織、地方区分や地方組織に加え、政治経済の要所に置く組織などにも触れている。この「律令官制」については下で詳しく。

大宝律令の「令」で定められた『律令官制』について

【中央の行政区分】五衛府(ごえふ)についてはメモ参照

まず、直接的に政治に関わる機関の中で一番力を持つ場所が・・・

  • 神祇官・・・神々の政を司る(当時は祭祀も政治の一つ)
  • 太政官・・・行政全般の管轄。今で言う内閣。
                 この下にある八省(宮内省・大蔵省など)がそれぞれの細かい政務を担当。
太政官の構成員である左大臣や右大臣等の公卿(くぎょう)による合議によって行政は運営された。

※太政大臣はその時の適任者がいなければ置かれないことになっていた。また、大臣の立場は通常左>右。

【地方区分】

   畿内    東海道    東山道    北陸道      山陰道    山陽道    南海道    西海道

五畿七道(ごきしちどう)・・・おおむね地形的な要因によって区分されている。

【地方組織】戸・保についてはメモ参照

五畿七道はそれぞれ国をいくつか内包する。
各国の下には郡が、その下に里という組織が構成。それぞれに国司郡司里長という責任者が置かれていた。 また、地方軍事力として軍団があり、そこに兵士が服属。軍団は3〜4郡ごとに設置された。

【要地の組織図】
坊や要所での国司の扱いなど詳細はブログに記載しているので参考にしてください。

メモ

 郡司とは(続き)
律令制が始まった当初は朝廷から派遣された国司と郡司との二重支配だったが、後に郡の再編を進めて郡司に大きな力が行かないよう配慮した。


 里長とは
郡司の管轄下に置かれた地位で、その土地の有力農民が里長となった。庸・雑徭が免除される。

主な任務は税の取立てと出挙の管理など。

里が郷と呼ばれるようになってからは郷長(ごうちょう・さとおさ)と呼ばれるように。

参考書籍









飛鳥時代関連のサイト

官制大観
個人サイトということですが、律令官制の沿革などとても参考になります。養老律令の現代語訳も載っていてサイトを作るうえで非常にお世話になっています。

 メモ

 笞・杖・徒
それぞれ、回数や年数により5段階に分けられている。

笞・杖に関しては皮膚を破らないような工夫がされていて、刑の執行者が誤って重傷を負わせたり死なせたりした場合は執行者の方が処罰されることになる。


 八虐とは?
律令で定められた国家に対する重要な犯罪を指す。

謀反:天皇殺害の罪で主犯か従犯かに問わず死刑。

(謀)大逆:宮や墳墓などの破壊を企むことを謀大逆、実行すると大逆の罪となる。

謀叛:国家に対する反乱や外観誘致の罪。

悪逆:尊属殺人。犯人と被害者との関係により刑が異なる。

不道:残虐な殺人に対する罪。

大不敬:格式の高い神社や皇室に対して盗みなどの非礼を働く罪。

不孝:子孫が父母や祖父母に殺人以外の犯罪行為を犯す。

不義:主君や師匠など目上の人に対する殺人など。
のことを言う


 五衛府とは?
京内に常駐する中央軍事組織で、天皇の身辺警護や宮城の警備、京内の巡回などを主な任務とする。

が、後に皇位継承争いや貴族間の抗争の間に何度も改変され最終的に「衛門府」も左右に別れ「六衛府」制として定着するようになる。


 神祇官
古代中国にはない日本独自の官衙。太政官と並んで二官とされた。

中臣(なかとみ)・忌部(いむべ)ら名負(なおい)氏がこの中枢部に就く事が多かったが、平安中期以降は皇室の末裔・白川家が世襲により就くように。


 五畿七道
元々古代中国で使われていた行政区分「道」に倣ったもので、日本では大化改新よりも前には導入されていたのでは?と言われている。

畿内は京が置かれる場所だったので例外として、この七道の中で重視されていたのが西海道山陽道

西海道は現在の九州に当たり、文化的基盤の違う隼人と言われる人々がいて720年までは組織的な抵抗運動が発生していたことや外国とのやり取りの窓口であったことから軍事的・外交的な要所として扱われている。

一方の山陽道外交使節団の入京路として重要視されていたとされる。七道のうち最も広く多くのが置かれていた。

※駅については『律令国家と道路の成立』参照

つい最近だと「北海道」の命名はこの行政区分から来ている(北海道の新設により五畿八道と呼ばれるように)し、「東海道新幹線」「山陽新幹線」「北陸自動車道」「南海トラフ地震」など現在までも命名に名残が見られている。


 戸・保について
とは地方行政単位の最末端で、戸主を中心に血縁関係などで繋がる人々のこと。

ただし、当時は通い婚の慣習があり離婚するのも容易だった他、奴婢など血縁関係不明なもの達も含まれたため、戸を家族単位のものだと単純に位置づけることは出来ない。 平均すると25名程度で構成された。

一方のは、5戸を一単位とした組織。責任者は保長と言い、相互扶助や治安の維持、税の徴収に対する連帯責任を負う。


 国司とは?
中央から派遣された官吏。任期は当初6年(後に4年)で国衙という地方の役所で政務に当たった。

祭祀・行政・司法・軍事を司る。また、徴税請負人としての役割も持っていたので、やり方次第では非常に『儲かる』地位だったようだ。


 郡司とは
国司の下で郡を治める。50戸からなる里が複数集まったものが郡で、その責任者が郡司。地方豪族が任に就く。

郡司もまた大きな権力を有し、徴税、保管、貢進、運用、班田収受も任されていた(中央からやってきた国司では政務に支障をきたすこともあり、郡司が事実上政務を執り行っていたということ)。