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稲作の伝来

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今からさかのぼること約3000年前に、中国大陸や朝鮮半島から移住してきた人々によって稲作などが伝わった (お米伝来のルート、更には時期まで諸説あり)。 このように、縄文の文化から稲作メインの文化に変化してきた時代を弥生時代と言う。



    出典:IPA「教育用画像素材集サイト」 ・吉野ヶ里遺跡「弥生ミュージアム」

大陸からの伝来は稲作だけに限らない。 鉄器・青銅などの金属器なども伝わり、その金属で戦いのための武器や農業のための農具などが作られるようになった。 これらの変化は人々の暮らしにも当然影響を与えることになる。


変化その1
水田が作りやすい湿潤な低地で、集落を作って生活

変化その2
高床式倉庫を作って米を保存。

出典:wikipedia「高床式倉庫 変化その3
富を蓄積できるようになり、身分差がハッキリと表れ始める。

変化その4    集落間での争いが多く発生。



上記のような変化が見られるが、非常に曖昧。 基本的には両者の違いは、メインとなる食物獲得手段が異なること。そして、それによって出来た文化や習慣の違いが縄文時代と弥生時代の決定的な差と言えよう。

 縄文時代・・・狩猟・採集メイン+細々と畑作や稲作
 弥生時代・・・稲作メイン+細々と狩猟・採集

弥生時代・古墳時代に至るまで、北海道では続縄文文化として縄文文化が色濃く残ったままだったりもする。 時間をかけてジワジワと弥生文化が広範囲に浸透していくイメージ



さて、稲作がメインになってどんなことが起こるかを考えてみよう。

 水源地や豊富な土地が必要となる
 争いが起こるようになり、対人用の武器も必要に

弥生早期は集落間の争いは九州北部に集中。 ⇒  何故??

      九州北部の土地柄を考えてみよう
         人口が密集 ⇒ 慢性的な食糧不足
                            渡来人が多い土地柄

      つまり・・・
         餓死への不安等が常に付きまとうということ ⇒ 農耕に必要な水・土地の争いに発展
          戦に関わる技術・考え方なども入手しやすい


弥生初期以降は別の地域でも縄文時代にはなかったような大規模の戦の痕跡が出て来るようになり、弥生時代の特徴として挙げられることが多い。


※古墳時代に入る前の時期になると、山陰〜近畿の日本海側と大陸や半島との交流も活発になってくる
     ⇒先進地域が九州北部から山陰〜近畿に変わっていくことになる




一方で、「身分の差」「戦の発生」といったマイナス面以外に大きな変化がある。人口の大幅な増加である。

縄文後期に人口が激減しているのは、気候変動・寒冷化が要因。

縄文時代の日本の状況
堅果類の保存法が確立
    ↓
狩猟採集社会として人口密度が世界一
増やせるとこまで増やしたギリギリの人口となる
    ↓
寒冷化
    ↓
大幅な人口減少








気候が安定したなどの要因も考えられるので、稲作だけが大幅な人口増加に直結したとは言い切れないが、その後の人口を見れば計画的な食糧生産が人口増加に一役買ったことは間違いない。

あるいは、農耕自体が多くの人手を必要とする仕事でもあるため、子供を増やし人手を増やそうとした結果が弥生時代の人口増加に寄与したのかもしれない。


出典:社会実情データ図録「人口の超長期推移」より一部抜粋
参考サイト:NationalGeographic―世界人口から考える、日本の未来― 第2回 「日本が乗り越えてきた4つの人口の波」
          るいネット「日本人の起源(縄文・弥生・大和)弥生時代の洗せ王の特徴を多面的に見る



弥生時代の名前の由来

1884年(明治17年)に東京都文京区弥生町で縄文土器とは形状の違う土器が発見された。特徴は以下の通り。

特徴その1    縄文式土器に比べ、厚みがない
特徴その2    装飾が簡素
特徴その3    藁や土をかぶせて焼くため、赤い褐色の物が多い

この土器は地名から弥生式土器と名付けられた。 その後も似た特徴を持つ土器が発見され、その時代に稲作があることも判明。

弥生式土器が使われていた時代を弥生時代と呼ぶようになった。 (以前は稲作もセットだったが、前述の通り縄文時代には伝わっていたようなので時代と共に定義が変わってきている。 )
出典:CEC教育用画像素材活用事例集
比較のため、縄文土器【その1】 縄文土器【その2】(クリックで写真)どちらもwikipedia「縄文土器」より

     

参考書籍





関連リンク

Gakkenキッズネット「弥生時代」
教科書みたいに簡潔にまとめられています。関連語リストは調べものに役立ちそうです。

裏辺研究所「弥生時代の幕開け」
歴史全般を扱っていて、データが膨大。弥生時代に限らず様々な時代の流れや他国の歴史までを知ることができます。

江古田原・沼袋合戦「弥生時代の開始年代」
考古学で年代を確定する時に使用する「AMS法」という手法が始まる前の考え方と新しい年代観とを比較。 地方ごとの研究結果もあります。

松澤芳宏の古代中世史と郷土史・日本古代中世史と郷土史を繋ぐ
銅矛や前漢鏡の埋蔵地といった特定のモノから古代史を考察。難しめだが今までと違う視点で見ることができます。

株式会社加速器分析研究所
「AMS法」について分かり易く解説。

嵐山町web博物誌
埼玉県嵐山町によるサイト。旧石器〜平安時代まで郷土史を交えて説明。 「丘陵人の叙事詩」という本を基にしてあり、遺跡からの出土品も数多く見ることができます。

縄文と古代文明を探求しよう!
題名通り、日本の古代史について考察してます。テーマが細分化されており、それぞれ考察しています。

弥生時代の遺跡

【北海道・東北地方】
砂沢遺跡
    (弘前市、現在水没)
垂柳遺跡
    (青森/南津軽郡田舎館村)
沼津遺跡(岩手/石巻市)
山王囲遺跡(宮城/栗原市)
里浜貝塚(宮城/東松山市)
地蔵田遺跡(秋田市)
百刈田遺跡(山形/南陽市)
向河原遺跡(山形市)
天神沢遺跡
    (福島/南相馬市)

【関東地方】
鹿島前遺跡
    (千葉/我孫子市)
弥生二丁目遺跡(文京区)
写真は記念碑のみ。弥生式土器が出土。名前の由来でもあるため記載
宇津木向原遺跡
    (八王子市)
大塚・歳勝土遺跡(横浜市)
神崎遺跡(神奈川/綾瀬市)
中里遺跡
    (神奈川/小田原市)


弥生時代の遺跡一覧にある、且つ、写真付きの公的サイトや大学の資料が公開してある遺跡み記載。

 メモ

 お米の伝来・ルートのこと
中国の長江下流から直接伝来した説
朝鮮半島に渡った縄文人が稲を持ち帰った説など

沖縄・西南諸島を経て来た説もあるが、西南諸島に稲作跡はなかったのでほぼ間違いと見られる。
ちなみに、後者の説は、ある遺跡の『水田で陸稲(畑で作る米)を作っていた』ことが理由。 半島から見様見真似で取り入れたのでは?という推測をしている先生が言っているそうです。


新たな研究法が確立されて、弥生時代が3000年前とされたのは2001年から。 それまで弥生時代の開始はそれよりも500年遅いとされていた。研究法の詳細はpdfファイルから。


参考サイト: 教授対談シリーズ・こだわりアカデミー「稲のたどってきた道」本日のごはん塾『お米はどこから来たのでしょうか?』弥生時代の開始年代(pdf注意)


 高床式倉庫とは?

米を蓄えるための倉庫であるが、湿気対策やネズミ返しという外からネズミが入ってこれない仕掛けも施されている。


 弥生時代の身分の差
衣服にも違いあり。
弥生時代の庶民の衣服
弥生時代の指導者層の衣服


弥生時代の庶民の住居

台所も建物内にあったそう

弥生時代の指導者層と思われる住居

出典:
CEC教育用画像素材活用事例集
wikipedia「登呂遺跡
神戸市埋蔵文化財センターより

墓の形も有力者たちは区別されるようになり、古墳時代へと移行していく。

参考サイト:「但馬を掘る」より

 気候変動と寒冷化
縄文時代の人口と人口密度(クリックで図参照)
上の図を見ると、縄文時代中期化から後期にかけて東日本の人口が減少し、西日本が増加しているように見える。

縄文時代の中期頃までは食糧が豊富にあった東日本ではあるが、寒冷化と共に人々が南下したとも考えられる。

ちなみに、渡来人が日本に来た理由は「寒冷化」も原因の1つとも言われている。

調べると細かい話まで出てくるので記載しませんが、気になる方は「日本人の源流を探して」というサイトさんの「東日本縄文社会の崩壊」を是非。 日本人のルーツを知ることができます。

出典:
地質ニュース659号2009年7月 「縄文時代の環境、その1‐縄文人の生活と気候変動‐」(pdf注意)より